沖縄の「岐路」 筆者座談会
沖縄タイムス・ブックレット17『沖縄の「岐路」』の取材・執筆を行ったのは、共に「復帰」後に生まれた文化面担当記者でした。2人が何を意図して取材にあたり、執筆を通して何を学んだのか。本書には収録できなかった座談会「連載を終えて」(2015年3月17日~19日付、文化面)をここに再掲します。
【筆者紹介】
与儀武秀 よぎ・たけひで 1973年 宮古島市伊良部生まれ。琉球大学大学院人文社会科学研究科卒。2000年に沖縄タイムス入社。写真部、運動部、中部支社、宮古支局などを経て14年4月から現職。
城間有 しろま・あり 1974年生まれ、那覇市出身。筑波大学第二学群比較文化学類卒業、琉球大学大学院人文社会科学研究科修了。01年沖縄タイムス社入社。社会部、南部総局、政経部、整理部を経て11年から現職。
(上)近世・近代編
琉球の独自性 再評価
自立求める機運 背景に
文化面、総合面で2014年7月から15年2月まで掲載した連載「岐路 歴史を掘る 未来を開く」では、近世から現代までの、琉球・沖縄の歴史的な転換点になったと思われる社会事象を取り上げ、計47回の連載を記事化した。連載を終えて、担当記者の与儀武秀と城間有が、近世、近代、戦後、復帰後、現代の各編ごとの執筆を振り返り、これまでの琉球・沖縄の歴史的歩みや今後の沖縄の将来像に与える示唆などについて、総括した。
■ ■
与儀 近世編では、当時の琉球王国が小国でありながらも大国間で埋没せず、したたかに外交交渉を展開していたことをさまざまな角度から取り上げた。特に近年の琉球史研究では、復帰前後に主流だった日本と琉球との同一性を強調する議論が見直され、逆に琉球の主体性や独自性、異質性を強調する視点が明確になっている。
城間 沖縄の日本「復帰」後から、日本国の中に沖縄を位置づける史観(「日本復帰史観」と呼称した)が見直される中で近世の研究が進み、琉球が主権者として中国、日本、列強などと交渉していた実態が明らかになってきた。それに伴い、現代の人々が学び直す過程で、自立的な沖縄史観をつくってきたことがよく分かった。
与儀 琉球への薩摩侵攻(1609年)から明治政府による琉球処分(1879年)までは270年に及ぶ。同時代は薩摩と中国に「両属していた」とも表現されるが270年も琉球が独自の王国を持続できたことを考えると「単に従属的な立場だったとはいえない」との指摘もある。薩摩や明治政府への激しい抵抗運動も存在した。
城間 薩摩への従属を拒んで処刑された謝名親方鄭迵(ていどう)を、現在の日本政府と沖縄の対立を重ね合わせて日本への「抵抗のシンボル」としたり、琉球の芸術文化の価値が再評価されている。大国と大国の間で自らを磨いた歴史を学ぶことで、自分の立ち位置に自信をつけ、琉球を鑑にして沖縄が今後行くべき道を探るという現代の側面が浮かび上がった。
与儀 日本と中国との間で独自外交を展開する過程で、結果として両国間の対立を軽減するバッファー(緩衝帯)のような役割を琉球が果たしていた側面もある(岐路6「小国寡民の戦略」中)。現在の東アジアでは国家間関係の緊張が指摘されるが、国家的な枠組みだけに埋没せずに、沖縄社会が自らの未来を開こうとする意識が、琉球という主体性への着目の背後にあるのではないか。
■ ■
与儀 近代に入ると、明治政府が琉球を強制的に近代日本に組み込んだ「琉球処分」により、朝貢関係や冊封秩序などの琉球王国の広域的な活動が、排他的な近代国家のラインで区切られた。「処分」直後は琉球側から王国存続を模索する動きもあった。
城間 「日本復帰史観」からの転換は、近代を見直す目ともなった。これまで、琉球士族としての既得権益を守るために日本を離れたとされていた「脱清人」の運動が「琉球救国運動」として、琉球のアイデンティティーを保持する目的だったと再評価されていることに象徴的だ。
与儀 今日的な再評価の背景には何があるのか。
城間 「復帰」によっても米軍基地問題などで格差は埋まらず、「日本復帰史観」による歴史論が現代の課題解決に直接結びつかなくなっている。その認識は、近代に「沖縄学」を打ち立てた伊波普猷への問題提起にもつながった。日本と琉球の祖先が同じだとする「日琉同祖論」は、沖縄の思想的自立に立ちはだかるものとして捉えられた。そして「日琉同祖論」との格闘を超えた今、あらためて、伊波を当時の状況に置き、沖縄の民衆をエンパワメントしようとした面を評価する視点も出てきている。
与儀 「琉球処分」という言葉は、国家の強権により沖縄が何度も切り捨てられたことを現在まで思い起こさせる意味も帯びている。近世や近代の歴史意識も、沖縄の現在から常に再審されている。
城間 琉球・沖縄の近世・近代を見る現代の目は、日本「復帰」を経てもなお、国家の矛盾にからめとられている沖縄を解き放ち、自立的に生きる道を求める中で形成されていることを実感した。
与儀 沖縄は「琉球処分」以降、後発的に近代化を推し進めなければならなくなった。だが、沖縄社会を発展させる意識は、次第に「近代化=日本化」とみなされ、皇民化の末に沖縄戦に行き着いた。近代沖縄を総括する歴史事象が沖縄戦である意味は重く、時に命を賭すことを人々に強いる国家との同一化が、いかに危ういものかを今日まで私たちに示唆している。
(2015年3月17日付)
(中)近世・近代編
民衆運動 現代に継ぐ
再評価される反復帰論
与儀武秀 戦後編では、講和条約や島ぐるみ闘争、復帰運動の変遷や反復帰論などを取り上げた。沖縄戦後史は1945年の終戦から72年の施政権返還までの27年間だが、密度が濃く、目まぐるしく状況が変わる。基調になるのは、米軍の圧制下で沖縄の民衆運動がかつてないほど高揚したことだ。
城間有 沖縄戦後の米国による支配は、沖縄住民の人権を考慮しないものだった。米軍は住民を収容所に囲っている間、戦争で焦土となった土地に広大な基地を建設。住民が居住地に戻ってからも、必要とあれば重機で家をつぶして土地を強制的に接収した。沖縄住民の命を脅かす事件、事故も後を絶たなかった。
与儀 その中にあって、大規模な民衆運動が起こり、強権的な抑圧や支配に対する抵抗運動を展開する。権力者や為政者の思惑だけではなく、民衆の意思が重要な原動力になり、歴史を動かした。
城間 1950年代後半の「島ぐるみ闘争」を、新崎盛暉沖縄大学元学長は、沖縄住民が戦後史に「はじめて、その巨大な姿を地平にあらわした」運動だと位置づけた。その怒りは、土地問題に起因するだけでなく、戦後10年間の米国の人権抑圧に対する「総反撃」であったとした。そして「島ぐるみ闘争」ではすべての目標は達成できなかったが、その後の民衆運動につながる経験となったとした。
与儀 圧倒的な権力と対峙(たいじ)する中で民衆側は劣勢に立たされるが、転んでもただでは起きなかったり、日米両政府の足をすくったりする局面がある。島ぐるみ闘争や教公二法阻止闘争、2・4ゼネストなど、現在から見返しても民衆運動の手法として学べる部分が多いと感じた。戦後史の可能性はいまだにくみ尽くされていない。
城間 住民が問題意識を共有し、課題解決のために同じ場所に集まる、という経験は、復帰を経て現在まで引き継がれている。2014年に名護市辺野古への新基地建設反対などを掲げて発足した「島ぐるみ会議」の名称も、この1950年代後半の「島ぐるみ闘争」を意識して付けた、との話を聞くことができた。しかし、50年代の「島ぐるみ闘争」が、沖縄の課題解決を日本「復帰」に依拠する起点になった一方で、現代の「島ぐるみ闘争」が日本からの自立を想定している点で大きく違うということがはっきりした。
■ ■
与儀 米国は1972年に日本に施政権を返還し、沖縄は再び日本の一部になる。苛烈な米軍統治を経験した沖縄は、次第に要求を変化させ「平和憲法」「基地撤去」を求めて日本への「復帰」を志向するようになった。だが、日米両政府は沖縄の基地負担を維持したまま施政権返還を強行し、祝賀と落胆で県内の反応は割れた。沖縄は望んで「復帰」したのだから、甘んじて基地負担を受け入れるべきだとの意見を聞くこともあるが、そもそも県民が望んだ「復帰」は実現していない。
城間 「復帰」への評価は、日本からの自立志向が強まっている現在、厳しいものとなっている。それは「反復帰論」の再評価にも現れている。新川明、川満信一、仲宗根勇の各氏が始め、岡本恵徳氏が加わって展開した「反復帰論」は、住民の抵抗運動だった日本「復帰」運動が、日米両政府の国家の論理に巻き込まれ、すり替えられていく過程で生まれた。
与儀 復帰運動の過程で、無権利状態から積み上げられた民衆の権利獲得の歴史は大きな意味を持つ。他方、沖縄の民意が一顧だにされない現状で、沖縄が日本という国家の一部である意味が問い直されている。「反復帰論は復帰すれば無くなる主張だ」との評価もあったようだが、文化的、政治的、思想的に沖縄の現状を考え、日本と沖縄との抑圧関係や矛盾があらわになる中で「反復帰」の問題意識が呼び起こされている。
城間 「日本化」を拒み、沖縄の主体的な運動を取り戻す、という反復帰論は今、日本政府との溝が深まる沖縄で受け入れられている。連載では新川氏と川満氏、それぞれの思想が二つに分かれて引き継がれ、展開していることに着目し、流れを探った。
与儀 一口に「反復帰論」と言っても、各論者や時代によってさまざまなバリエーションや変化がある。さまざまな論者を含め、議論が今日まで継続されている現在進行形の思想だと感じる。
城間 新川氏が日本と沖縄の異質性を沖縄自立のエネルギーにしたのに対し、川満氏は異質性を強調することが沖縄内部の支配被支配の構造を見えなくすると危惧する。新川氏の主張は、沖縄の日本からの独立を目指す人々に特に受け入れられ、川満氏の主張は、異質性を包含した社会を目指す人々に受け入れられていると分析した。この二つの流れが、現代の沖縄の思想シーンの特徴といえる。
(3月18日付)
連載を終えて(下) 復帰後編・現代編
民意 強まる自立志向
歴史鑑み 国と関係模索へ
与儀武秀 復帰後編では、本土化に伴う開発や沖縄海洋博、CTS阻止闘争、首里城復元、沖縄の若者文化の台頭などを取り上げた。1972年以前が「政治の季節」と言われる一方、72年から80年代は「経済の季節」とも表現されることもあり、大規模な資本投下によって経済開発が進んだ時期だ。
城間有 日本に「復帰」して公共投資が進み、日本の法律、制度が適用されて他都道府県との格差は縮まった。しかし米軍基地はなくならず、開発の名の下に自然破壊が進んだ。
与儀 72年以前とは異なり、人、モノ、カネの往来が沖縄と本土で活発になり、各政治組織や団体、企業などの本土系列化も進んだ。制度的な一体化とともに社会インフラが整備され、沖縄の伝統的な文化や自然に根ざした共同体的な価値が衰退していく。変化の中で沖縄が地域の独自性を失い、画一化が懸念されたが、他方で人々の生活水準は向上した。
城間 制度的、精神的な「日本化」が進むと同時に、沖縄の独自性が肯定的に受け入れられるようになっていく。沖縄の復帰20年にあたる92年前後は、特にその傾向が現れたといっていいだろう。琉球国の象徴としての首里城正殿が復元され、沖縄が日本とは違う独自の歴史を歩んだことが県内外に可視化された。
与儀 90年代以降は若者たちを中心に、沖縄の文化的価値を臆せず強調し、再評価する文化的な動きも注目された。沖縄語を交えた日本語「ウチナー大和口」で、沖縄の習俗や慣習などを積極的に楽しむ姿勢は、画期的なものと受け止められた。エキゾチックな文化イメージが強調される一方、沖縄を取り巻く政治や経済の課題が後景化するとの危うさも指摘されたが、以前まではコンプレックスの対象だった沖縄文化の価値を刷新するインパクトを持ったことは大きい。
■ ■
城間 95年の米兵暴行事件、2004年の沖国大ヘリ墜落事故、07年の教科書問題と、変わらぬ米軍基地の負担を実感したり、東京と沖縄の価値観や利害が対立するような出来事を経験していく中で、沖縄独自の価値観は深められたといえる。
与儀 とりわけ1995年以降の沖縄の世論の高まりは、72年の日米両政府による施政権返還の強行の問題点が、いまだに未解決であることを強く人々に印象付けた。現代編で取り上げた、沖国大への米軍ヘリ墜落事故や教科書検定意見の撤回を求める県民大会、民主党政権の辺野古移設回帰、オスプレイ強行配備などの社会事象は、日本と沖縄との矛盾をはらんだ関係をあらためて浮かび上がらせている。
城間 今、名護市辺野古への新基地建設をめぐって、政府と沖縄の対立はかつてないほど激しくなっている。日本本土の住民の中には沖縄に強大な米軍基地があることで、日本が守られると空想する人もいるだろうが、沖縄戦の記憶を持つ沖縄の人々は、その空想に支えられた政権が住民の生命よりも、国土としての基地所在地を守ることを優先しうることを学んでいる。ここに利害の対立がある。
与儀 昨年11月の県知事選では、普天間飛行場の辺野古移設に反対する翁長雄志氏が約10万票という文字通り「ケタ違い」の票差で当選した。瞬間風速ではなく、沖縄の民意の底にある固い岩盤が、ずるずると地殻変動を起こしている感がある。
城間 辺野古新基地建設反対を掲げて当選した知事とも政府は向き合おうとしない。民主主義が通じない。民意を東京に響かせるためには、これまでとは違った手法が必要になると、私たちは感じている。
与儀 近世から現在まで、琉球・沖縄の社会の分岐点を考え直してあらためて感じたのは、沖縄社会の現在が、これまでの厚い歴史的歩みの上に成り立っていることだ。表面的には時事的事象のように見えても、その背後には「沖縄戦」や「講和条約発効」や「琉球処分」といった、数十年、数百年にわたる歴史的な重層性がある。その蓄積は、歴史教科書で戦争を美化しようとする政権の歴史認識や、主権回復の日をことほぐ政治姿勢や、普天間の県外移設方針を転換する県選出国会議員への批判などと相まって、強いあつれきを生みながら沖縄の現在に立ち現れる。
城間 連載を通して見えたのは、沖縄の日本「復帰」から40年以上たっても日本化されない、自立への志向が残り、それが強まっていることだ。琉球の歴史を学んで日本に対する独自性を固め、権力に無批判で追従したために戦争の害を被った事実を再確認し、日本「復帰」にすべての課題解決を託した運動を省みる。これまでのように他人頼みでは事態を打開することはできない、沖縄自身が変わらなくては、という思いが芽生えている。
(3月19日付)