戦没者の足跡 作品の解説と記者のつぶやき
2014年6月22日、午後8時。会社のデスクで私はかなり焦っていた。ガムをかむのももったいないと思うほど、追い込まれていた。翌日の慰霊の日にウェブで公開しようとしていた「具志頭村『空白の沖縄戦』~69年目の夏 戦没者の足跡をたどる」は、ギリギリまで取材をし、原稿を書いていたため、最終確認がかなり遅い時間になってしまっていた。プリントアウトして、一言一句、間違えていないか、何度も確認を繰り返した。
新聞にもウェブと連動した形で展開することになっていた。でも、あすの朝刊作業は、これからというところ。ゲラにはまだ地図は入っていないし、デスクからは「分からない」と指摘が飛んでくる。ウェブ作品の概要を紙面で短く説明することがこんなに難しいのかと、うまく書ききれない自分にもいらだった。降版ぎりぎりまでゲラも確認した。会社を出たのは24時を過ぎていたと思う。
非常におなかがすいていて、自宅に帰って、うどんを食べてすぐに寝た。また丸くなるなぁとか、体に悪いことをしたなぁと、反省しながら早朝に目が覚めた。ベッドでいつものようにスマホを開くと、なんと、ツイッターでたくさんの方が作品についてつぶやいてくれていたり、リツイートしてくれていたり、Facebookにも「いいね!」がいっぱい!! SNSで流れる言葉のおかげで、朝刊を読みながら、調子のいい私は、おいしく朝ご飯を食べることができた。
この作品は、沖縄タイムス社とGIS沖縄研究室(渡邊康志主宰)で制作した。ただでさえ6月、おいしいご飯を食べられたことに満足していたのに、11月には東京・お台場であった地理情報の作品を競う「Geoアクティビティフェスタ」(主催・国土交通省など)で奨励賞、15年1月の「ジャーナリズム・イノベーション・アワード」(主催・日本ジャーナリスト教育センター、共催・法政大学社会学研究科)では2位となり、データジャーナリズム特別賞を頂いた。
特に、「ジャーナリズム・イノベーション・アワード」は、NHK、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞といった大手マスコミをはじめ、Yahoo、ハフィントンポスト、ポリタス、THE PAGE、首都大学渡邉英徳研究室などが出展。沖縄タイムスもノミネートしたものの、地方の一記者から見れば、大リーグに弱小野球部が立ち向かっていくような無謀なチャレンジと言ってもよかった。(ずっと胃が痛かった)
「参加することに意義がある」と言い聞かせて沖縄を離れた。せっかくの東京なので、アワード集合時間の30分前まで池袋で別の取材をし、ダッシュで会場に向かった。色んな出来事が重なって、結局、ブースには一人で出展。寂しいなと思いながら、隣のブースには、ソチ五輪・女子フィギュアスケートの浅田真央の「ラストダンス」を企画・制作した朝日新聞社の古田大輔記者。向かいのブースは、ブロック紙同じ地方紙の神戸新聞社とQ00Q! 「阪神・淡路大震災on Yesterscape」は弊社のデジタル部でもとても話題になった作品で、これを体験させてもらっただけで、来て良かったと思った。
イベントが始まったら、全てのブースを回り、取材しながら勉強する予定だったが、始まってみると、ブースにはたくさんの方が来てくれるという想定外の嬉しい悲鳴。しかも、賞も頂けるというさらに嬉しい結果となった。
というわけで、今回は、本作品の解説をする。
本作品は、70年前の沖縄戦の戦没者がどこでどのように亡くなったのか、足跡をたどったもの。沖縄で生まれ育った私は、幼い頃から戦争体験者の話を聞くという貴重な経験をさせてもらってきた。しかし、疑問もあった。死者の話を聞きたいと思っても、当然のことながら聞くことができなかったことだ。しかし、データを使えば、戦没者の足跡をたどれるのではないか、という考えが作品の原点にある。
今回、戦没者の足取りをたどったのは、沖縄本島南部に位置し、沖縄戦終了間近の1945年6月以降に激しい戦闘が繰り広げられた旧具志頭村(現・八重瀬町)。同村出身の戦没地に関しては、沖縄県が沖縄戦で亡くなった全ての人々を刻銘した記念碑「平和の礎」を制作するにあたって、遺族に聞き取り調査をした戦没者名簿を使用した。
名簿は、聞き取り調査だったため、70年前の地名と現在の地名が混在していた。死亡場所の表記の種類は364種にも上ったため、死亡地域の住所を正規化して、死亡場所をGoogleEarthに落とし込んだ。地図は、GIS沖縄研究室の渡邊康志先生が制作してくれた。
作品の中では、地図上の赤い点が戦没者が亡くなった場所で、1点が一人を表している。具志頭村では村民の4割以上に当たる約2200人が亡くなっている。
戦没者の足取りは、具志頭村の沖縄戦史を研究している沖縄国際大学の吉浜忍教授に解説してもらった。
第1章「村民はいつ、どこで命を落としたか?」では、米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月から7月までを時系列で戦没地をたどった。
作品を下にスクロールすると、4月、5月、6月と経過していく。米軍の進撃ラインが南下するとともに、戦闘が村に迫ってくる。村民は追い詰められ、犠牲者が増えていったことが視覚的にもわかる。7月は、地元の具志頭村よりも、北部や近隣の村の収容所で多くが亡くなっている。
第2章「生死を分けた海と山」では、村の中でも戦没者の多かった字を4つピックアップした。字ごとに、字出身者の亡くなった場所を視覚化することで、地形によって逃げることが出来なかった現状も浮かび上がってきた。また、体験者には、これらの地図を全て見てもらいながら、インタビューをした。「港川の地域は入り江があるから隣の村に逃げられなかった」「山にある壕に行こうとして戦闘に巻き込まれた」など、地図を裏打ちするような証言が出てきた。記者が「当時はどのような状況にありましたか」などと質問をするよりも、当時を思い出す手がかりを提示することで、的確な情報が出てきた。これは、今回の作品づくりでの大きな成果でもあった。
本作品中の写真と動画はすべて「沖縄公文書館」の提供。旧具志頭村で撮影されたと思われる写真を探し、使用した。
作品を公開したのは2014年6月23日。沖縄戦の組織的戦闘が終わった日に合わせた。本紙一面とウェブサイトを連動した本紙初の報道になった。新聞で、写真と地図のグラフィックを複数使うことは紙幅をかなり取ってしまうため、本紙では概要を紹介し、ウェブで大展開する形となった。
また、作品のデザインは、「クルーンラボ」の宮城園代さんに依頼。見出し、構成はデジタル部の吉元さん、プログラミングなどの技術的な部分はデジタル部の木下さんが作ってくれた。社内の協力もあって、無事に公開できた。そして、地理情報システムを研究するGIS沖縄研究室の渡邊康志先生の技術なしには実現できなかった。そして、複数の媒体、ブロガーさんたちがアワードでの様子や作品を紹介してくれた。皆さま、本当にありがとうございました。
アワード特別協賛の「YAHOO!JAPAN」さん
次世代のジャーナリズムってなんだ!?-「ジャーナリズム・イノベーション・アワード」に行ってきた
http://staffblog.news.yahoo.co.jp/newshack/jcej_award_20150124.html
「アルゴリズムか編集者か」「個人か組織か」~ジャーナリズムの未来は?
http://staffblog.news.yahoo.co.jp/newshack/jcej_panel_discussion.html
有名ブロガー「edgefirst」さんは、いち早く、本作品を詳細に的確に、ブログで紹介してくれました。
沖縄タイムス「地図が語る戦没者の足跡」に特別賞 次世代ジャーナリズムの表彰イベント
http://edgefirst.hateblo.jp/
ゲスト登壇者でコピーライター、メディア戦略家の境治氏のブログ「クリエイティブビジネス論」。
「ジャーナリズムイノベーションアワードが文化祭みたいで面白かった件」
http://sakaiosamu.com/2015/0127114635/
主催の日本ジャーナリスト教育センター。写真もたっぷり、非常に分かりやすい内容。
「みんなの情熱を引きだした」ジャーナリズム・イノベーション・アワード
http://jcej.info/jia/feedback.html
ValuePress!。作品を紹介してくださった。
【イベントレポート】ジャーナリズム・イノベーション・アワードへ行ってきました。
http://www.value-press.com/news/20150129
今回は複数のメディアから取材を受けた。(記者と取材相手という普段の立ち場が逆転して、戸惑った。「うまくしゃべれたかなぁ」という取材相手からよく聞く言葉を身に染みて感じた。)
その中で、非常に印象に残った質問は、「ウェブに書く記者は、これから何が必要か?」だった。この問いは、2014年3月、社会部から異動してきた私が、毎日、直面することになった問題そのものである。なぜなら、現場に行って、写真を撮り、記事を書いてきた「ペン記者」の能力だけでは、通用しないことを痛感しているからだ。(私がITにまだまだ疎いこともある)
オンライン上では、記事を書くことや社会情勢の把握に加え、企画を立てること、外部の方の原稿を編集すること、ITやITメディアの動きを知ること、さらには、記事を最適に表現できる方法・技術を知っているかどうかなど、多角的な能力が必要なのだと感じる。特に、地方紙の記者としては、オンラインで場所と情報がフラット化したために、地方のニュースが、例えば渋谷センター街を歩く若者にどう読まれるのか、どんなニュースが読まれるのかという視点も考えながら発信する必要も出てきた。「鳥の目」をもっと広く持つことが大事なようだ。
そして、もう一つ大事なことは、外部との連携、協力が不可欠なことである。新聞記者は、取材をして記事を出すということが主の仕事であって、外部の企業や個人と組んで仕事をする機会がなかなかない。しかし、ウェブでは、このつながりが最も大事なポイントだと感じている。テキストと写真以外の表現の幅を広げてくれるからだ。多くの人の技術とアイデアによって、記事が生き、結果、多くの人の元に届く可能性が大きくなる。記者に求められている仕事が、さらにハードな内容になってきていることを身をもって感じている。
今回、最優秀賞だった首都大学東京の渡邉英徳研究室の「台風リアルタイム・ウォッチャー」は、 「一人一人がジャーナリスト」であるという点に新たな報道の息吹を感じた。一方で、新聞記者の価値はどこにあるのか、これからの時代に何ができるのかなど、どの分野の力をいかにつける必要があるかを冷静に考える機会にもなった。オンライン上のジャーナリズム作品を学びながら、記者の働き方やあり方が大きく変わる転換点にいるのかもしれないと常々感じている。
こんなことを書いたけれど、そんなに君は出来るのか? いや、まだまだ発展途上なので、でも、自戒を込めて、書いてみた。これからまた勉強しながら、仕事をしていこうと思う。本業のウェブマガジン「W」http://www.okinawatimes.co.jp/w/も、すごく緩いらしい私のブログhttp://ameblo.jp/w-okinawatimes/もよろしくお願いします。
「地図が語る戦没者の足跡」は現在、読谷村バージョンを制作中。また、戦後70年企画として、みんなで協力しながら複数の作品を発表していきたい。
最後に、投票してくださったみなさん、運営に加え、搬入・搬出の作業も手伝ってくださった日本ジャーナリスト・教育センターの皆さん、私のブースにずっと居てくれた成城大学の高橋さん、他、関わってくださった全ての皆さんに感謝します。本当にありがとうございました。